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映画批評、映画評論
「崖の上のポニョ」宮崎駿~それでも私を愛せますか 2008.7.31
監督宮崎駿
こんな映画を撮ってしまってよいのかと思えるくらい、怖ろしい作品である。二回見たが、一度目はしっとりと、二度目に大いに泣けた。
公害を撒き散らす人間の住む水面を目指し、ひたすら「人間」になりたいと浮上しようと試みるポニョは、浮上するや、ハムだのインスタントラーメンだの、食品衛生上、いったいどんなものが混ぜ合わされているか判らず、我々が「危険」だと回避するような食品たちをこよなく愛し、陽光の下でひたすら眠り、雷や停電をスリルとして楽しみ、そして最後には、自己の「魚である」という出自について、「それでも私を愛せますか」と、じっと我々を見つめながら問うてくる。この作品は痛いほど地球的である。
ひたすら「上」という空間を目指しながら「浮上」するポニョの姿は、その「上」にある人間の世界が汚染されていればいるほど痛切であり、頽廃に浸っていればいるほど感動的である。
さらに水上に浮上したポニョが最初にしたことは、崖の上の家を「見上げる」という行為であり、車に乗って保育園へ行く時も、ポニョは見た目のショットで崖の上の家を「見上げて」いる。この「浮上し」たり「見上げ」たりという行為がただそれだけでひたすら美しいと感じた時、「崖の上」という論理的な「物語」が、「見上げるための崖の上」という非論理の崖となり、我々の瞳はひたすら形象と破壊との狭間に放り込まれる。
「断片的に映画を撮る」とは、論理を非論理へと破壊することであり、それは論文「心理的ほんとうらしさと映画史」に詳しく書いたが、この「崖の上のポニョ」は、以下のような「破壊」によって成り立っている。
①海底のポニョ、海中に差し込む陽光を浴びてくらげの背中で居眠りをしながら水面へ浮上する
②オープニングタイトル
③ポニョ発見
④リサの車でひまわりの家へ。ポニョ、ハムを食べる
⑤保育園の女の子を泣かせたりするポニョ
⑥崖の下でポニョ海へさらわれる
⑦夜、耕一の舟と光信号のやりとり
⑧ポニョ津波に乗って浮上する
⑨豪雨でひまわりの家、停電
⑩車で津波からの逃走とポニョとの再会
⑪ポニョ、発電機を直し、ハム入りラーメンを食べながら眠る
⑫リサ、二人を残し、車で出発
⑫おもちゃの舟を大きくして出発
⑬小舟の上の子連れ夫婦との出会い
⑭ポニョ陽光の下、舟の屋根で眠る
⑮林道でリサの車を発見して泣く
⑯海中でポニョの母と話すリサ
⑰トンネルの中でポニョ眠る
⑱~
こうして、序盤から終盤までのシークエンスを「順番に」並べた時に、物語上論理的に必要なシークエンスは、せいぜい①③くらいしかない。例えば⑥は、⑧の光景を是非映画にしたかった宮崎駿にとってのマクガフィンに過ぎないし、⑨の「停電」もまた、暗がりと明るさという光の差異を露呈させるためのマクガフィンである。
⑫では、森の中から差し漏れてくるリサの車のヘッドライトを、⑪や⑭では眠っているポニョの寝顔、④は疾走する車と次第に離れて行く崖を見上げるロングショット、⑦はまさに「光」信号そのもの、⑩もまた、津波に乗って疾走するポニョそのものを、「そのものとして見ること」を、映画の画面そのものが望んでいる。決して物語を進行させるための論理として画面が利用されていない。
人間の手によって汚れ切った海の中で暮らしながら、それでも「人間」に憧れ「浮上」してくるポニョの姿はそれだけで情動を掻き立てる存在である反面、理屈っぽい人間には極めて縁遠い種でもある。おそらくポニョの存在は、そうした誰かが一言でも「なぜ?」と聞いた瞬間、溶解し、分解し、いなくなってしまうような儚いものにすぎない。
そんなポニョを「存在」させているものは、ポニョそれ自体ではない。ポニョの存在を「なぜ?」とは尋ねはしない人たちの愛がポニョをして「存在」へと導いているのである。
ポニョの「種」を問わないこと、ポニョの「出自」を尋ねないこと。宮崎駿は最初から最後まで、「問わないこと」を一貫させている。そんなことを尋ねる前にまず、目の前で「呼吸」をしているポニョを見つめること。
空き瓶だのハムだのインスタントラーメンだの、ポニョは人間の欲望とそれが生み出す矛盾を引き受けながら、それでも「浮上」し、ひたすら憧れの眼差しでもって「崖の上」を見上げている。ポニョは目を背けず、矛盾ごと人間を志向している。そこに始めて「生きること」の息吹が生まれてくる。
この作品は、そうしたポニョの息づかいそのものを、ポニョという存在を、今度は回りまわって、我々人間が引き受けることができますか、と迫ってくるのだ。
「何故!」、今になって、宮崎駿は、このような怖ろしい映画を撮ってしまったのだろう。
この映画は「ポニョ」という「存在」そのものを、消すか消さないか、の選択を我々に迫っている。画面の上に流れて行く一見善良そのものの画面の裏腹に、いや、その表層そのものに、「存在の抹消」という、怖ろしい選択が露呈している。
宮崎駿はこれまでも、「存在」というものは始めから客観的に「在る」ものではなく、「信じる者たちの心」が「作りあげる」ものであることを繰り返し描いてきた。「となりのトトロ」の「トトロ」は、信じる者たちにとってのみの「トトロ」であったし、「魔女の宅急便」の「魔女」は、決して「何故?」と尋ねない者たちにとっての「魔女」であった。
宮崎駿は「見る者を選ぶ」。と言っても彼は、高尚な哲学的題目や、知性の論理的集積を求めている訳ではないし、ましてや道徳的な格律や、宗教的な戒律を期待しているのでもない。宮崎駿が求めているのはたった一つだけ、『決して「なぜ?、」と聞かないこと』、である。豊かさとは、「なぜ?」と尋ねる前にまず、目の前に露呈しているものをただそのものとして受け容れることだからだ。
「崖の上のポニョ」は、ハッピーエンドである。だが、映画の主題からして、最後に誰かが「何故?」と尋ねた瞬間、ポニョは消えてなくなってしまう、、、、そんな結末も十分にありえた筈だし、「崖の上のポニョ」はそういう類の映画であることを我々は肝に銘じるべきだろう。理屈に支配された現在の社会からするならば、それこそ、この映画にとって相応しいラストとも言えるのである。だが宮崎駿はそうしなかった。なぜだろう。それは宮崎駿が、相も変わらず「人間を信じているから」ではないだろうか。
これまでの宮崎駿作品は、そうした「存在への問い」そのものが、物語的主題としてあからさまに露呈することはなかった。
「もののけ姫」あたりからだろうか、宮崎駿は少し怒っている。いや、「もののけ姫」に対する世間の反応がそうさせたのかも知れない。私は「心理的ほんとうらしさと映画史」の論文の中で、「もののけ姫」以降の宮崎駿は次第に受け容れられなくなるだろう、と書いた。答えはごく簡単で、宮崎駿の映画は、徐々に「ほんとうらしくなくなり」始めたからである。
だが実を言えば、ハナから宮崎駿の作品は、ちっとも「ほんとうらしく」などなかったのである。そこを世間は決定的に勘違いしている。
「崖の上のポニョ」は、「デスプルーフ・イン・グラインドハウス」とまったく同じ映画である。ジャン・ルノワールの「ゲームの規則」との会話を楽しみ、白昼夢の中で漱石の「草枕」と戯れている。だが漱石は広く受け容れられ、「映画」は抹殺される。なぜ?、、、
映画研究塾2008/7/31